コスタリカ見聞(1989.4.8~1991.3.12)  山田羊平 2007.10記

AICCO会員の山田羊平氏は1989年から1991年にかけてコスタリカの日本人学校の校長を務められました。当時のコスタリカの様子を回想した見聞録を執筆されたので、ここでご紹介したいと思います。コスタリカの様子が伝わってきますよ。(各項目のタイトルは事務局のほうで便宜的に付け加えたものです。)

  1. サンホセ  「キリストの父サン(聖人)ヨセフ」
  2. トイレ事情  「トイレットペーパーを流さない国コスタリカ」
  3. 交通事情  「運転に気を抜けない道路の穴」
  4. 車  「文部大臣の車に激突・・・裁判所へ」
  5. 買い物  「拳銃を持った警備員の立つ店」
  6. コーヒー  「コーヒーにかけた輸出税で作ったパリのオペラ座を模した国立劇場」
  7. 宗教  「セマナサンタ 十字架を背負いゴルゴダの丘へ」
  8. 文化  「1000年前の直径1.5mの謎の石の球」
  9. 教育  「『平和で民主主義の国である』ことを誇りに思っている児童」
  10. スポーツ  「歓迎の人で埋め尽くされ一般車両が通れなくなった祝賀パレード」
  11. 医療事情  「胃カメラ(日本のオリンパス製)を飲んだ」
  12. 日本・岡山の認識  「日本文化月間にはスペイン語字幕の日本映画鑑賞会や、、、」
  13. その他  「午後10時頃セントロのバス乗り場まで安全に歩け帰宅できたよき時代」
  14. 帰国後  「日本文化が少しずつ浸透している」



サンホセ 

メキシコのある教会の聖人画の中に、住んでいたコスタリカの首都サンホセと同じ名前の絵があることにビックリ,後でサンホセとは「キリストの父サン(聖人)ヨセフ」の事だと教えられた。地図を見ると旧スペインの植民地では地名に聖人の名前を付けている場合が多いい。コスタリカの都市名は勿論、メキシコの領土だったカルフォルニア州のサン・ノーゼやサン・フランシスコ、ロス・アンジェルスも同様である。住宅 前校長の後を継いだ家具付きのアパートの3階で広い居間、オール電化の台所(水道水は飲料可)、寝室は客用と2室、バス(シャワーのみ)兼トイレが2室、トイレ付きメイド部屋、玄関は鍵付き鉄格子の戸と2つ鍵が付いた鉄製の戸の二重、洗濯物が外から見えない物干し場、1階に鉄格子で囲んだ車庫等があった。

最初の年は階下に国会議員の母親が住んでいたので毎日夕方から明け方まで自動小銃を持った警備隊員が警備してくれた。息子の議員の任期が終わった後は、近所の人達と金を出し合って警備員を雇った。

南向きのテラスから、3キロ離れたセントロ(商店街)のバンコ(銀行)ナショナルの15階建てのビルが見え、クリスマスには窓の照明をツリーの形に飾っていた。また、標高2036mのサンミゲル山の頂上付近にスペインから贈られたと言われる高さ20mの十字架が毎日夕方になると点灯し、その十字架の前には大きなキリスト像が両手を広げサンホセ市を見守るように立っていた。近くの屋根に古ぼけた小旗が立っているのをよく見かけ気になっていたところ、大統領選挙が近づくと支持する政党の新しい旗に取り替わっていった。

一般に表札を掛けないので知人宅への訪問には不便。郵便物の宛先は住居表示が無いため目立つ建物から東西何メートル、南北何メートルと書かねばならない。私は中央郵便局にある学校の私書箱を利用した。

北緯10度の熱帯だが標高1000mでさわやかな風が吹いて過ごしやすく一年中夏布団で過ごせた。11月末から5月迄の乾季は運動場の草が枯れた、雨季は午後になると雷を伴った豪雨が1時間ほど降った後は晴天。


トイレ事情 

一般家庭の90%は水洗トイレ(詰まりやすいのでトイレットペーパーは籠に入れ流さない)なのに、岡山の我が町は2007年になっても汲み取りの家がある。しかし、公衆便所は無く、商店街や市役所では鍵を借りないと利用できない。日系スーパー八百半には自由に利用できる便所があった。


交通事情 

道路は舗装されているが雨期明けになるとほら穴が沢山でき運転に気を使った。市街地は一方通行で、主要道路の交差点は四角な信号機が中心に1つ吊り下がっている。また、郊外にはロータリー方式で進入は左側優先である。従って信号機は少なく、信号で停車していると物売りがやって来たりする。

公共機関のバスは低料金で庶民の足、乗る前に料金を払い乗車人数をカウントするバーを押して入る。女性が立っていると席を譲る男性をよく見かけた。セントロでは一方通行のため降りる場所と乗る場所が違う。
image001.jpg













 

一番早く5月に入手できた新車のスバルジャスト1200ccの4輪駆動(158万円)を買った。しかし金属のプレートがすぐ手に入らず、半年ほど紙の仮プレートをフロントガラスに貼り付けた。初めて運転したセントロの帰り一時停止の標識を見落とし、文部大臣が運転していた公用車の側面に衝突するハプニングがあり後日裁判所に出頭する羽目になった。また、ゴルフの帰りの田舎道でスピードガンを持った警察に止められスピード違反、すぐ払う金額と後日銀行で払う金額を示したので、安い領収書なしの方で払った。

免許更新は半日仕事。車を売る場合、弁護士による所有者の確認書が必要。


買い物 

近くにスーパーがあり、駐車場を囲むように左側にアイスクリーム店、時計店、衣料用品店、右側には魚屋、飲食店、家具店などが並んでいる。スーパーに入る時、大きな袋は入り口で預けさせられた。レジのそばでは男の子が袋詰めを手伝って頼めば車まで運んでくれる。八百半では車を監視する子(チップを払う)がいたが帰国するころには居なくなった。土日もスーパーは開いている。総選挙の日が近づくとアルコール類の棚にシートが掛けられ販売禁止。

朝市が毎週土曜日の午前中、市内の何ヵ所で道路沿いに野菜や果物の露店が500~600m開き賑わっていた。

日本食材は八百半でしか売っていなかった。味噌が3ヶ月ほど品切れになり困っていたら大使公邸の板前さんが貸してあげると言ってくれた。米は台湾米を台湾系中国人から買い、無い時は外米に糯米を買い混ぜた。

セントロの店は日曜日殆んど閉まっているが、家族連れがウインドウショッピングを楽しんでいた。TVのコマーシャルで日本製の車や電気製品、快適で豪華な暮しを見せ付けていたが、庶民にとっては高嶺の花どんな気持ちで見ていたのだろうか。貴金属店の入り口には拳銃を持った警備員が立っていた。セントロの通りは出店で狭くなる上、宝くじ売り(ロッテリヤ)が売り声を上げながら歩いているので自動車の運転には気を使った。セントロの中心の文化広場ではマリンバ演奏や大道芸をしていて、私も楽しませてもらった。公園のベンチに腰掛け日がな一日中お喋りする男性をよく見かけた。


コーヒー

コーヒー栽培が始まったのは200年前、あっという間に主要作物になり、コーヒーにかけた輸出税で1897年パリのオペラ座を模した国立劇場を建てた。また、コーヒーを運ぶため、サンホセからカリブ海と太平洋との各港まで鉄道を敷いた。

標高1000m前後のサンホセ周辺の丘陵にコーヒーの木が茶畑のように連なっており、5月に開花し12月から収穫。日本人学校は生徒会活動の一環として、40本あるコーヒーの木に児童生徒の名札を付けて世話、収穫、果皮むき、実を乾燥した後、焙煎工場で製品にしてもらった。コーヒーの古木の枝ぶりを生かした木彫りの人形や鳥をみやげ物として売っていた。


宗教 

カトリックが国教。祝日はキリスト教に関係した日が多い。日曜には盛装した少女が家族と一緒にミサに行くのを見かけた。町の中心に教会があり前は広場で市民の憩いの場になっている。町によって教会の建物の形が違っていた。サルセロの教会は広場の植木をアーチや動物の形に刈り込んだトピアリーで飾っていた。

セマナサンタ ゴルゴタの丘を十字架を背負ってセマナサンタ(聖週間)の日、空港近くのサンホアキンで、町の通りをキリストに扮した青年が長さ2mもある十字架を背負いゴルゴダの丘へローマ兵に拘引されるのを再現する祭礼を見た。キリストに選ばれた青年は1年間精進潔斎するそうだ。私が住んでいたグアダルーペでは聖母マリア像を神輿に乗せ行進し市民に祝福を与えていた。

セマナサンタとクリスマスの休暇は、家族が一堂に集まって祝い家族の絆を大切にしていた。

新年は日本とは違い花火の音と共に明け元旦だけ休日。


コスタリカの文化文化 

遺跡は8世紀のトゥリアルバのグアジャボ国定史跡ぐらい。セントロにヒスイ博物館や黄金博物館、サバナ公園に国立美術館がある。国立博物館にはオサ半島で発掘された約1000年前の直径1.5mの謎の石の球が置いてある。博物館は昔兵舎だったので壁に弾痕が残っている。

国立劇場では、コスタリカ国立交響楽団が年11回定期演奏会を開き、各回の定期演奏会では木・金曜の夜と日曜の午前中(子供連れ家族が多い)の計3回同じ曲目を演奏していた。第2バイオリン首席奏者に日本人の八木氏が活躍していた。交響楽団の養成機関として青少年楽団が設立している。

国立舞踊団もあり、コスタリカの歴史を舞踊で表現していたのを見た。



日本文化紹介














教育 

公立小学校は午前と午後の2部制、授業中は校門を閉じて下校時間には親が門の外で待っていた。どんな僻地にも小学校がある。落第制度があり、卒業の試験で所定の点数に達しない児童は卒業できない。

4年に一度の大統領選挙では子供だけの模擬投票が行われるためか選挙に関心を持っていた。

公立の教員がストを計画した時、文部大臣は「教師はストの権利を持っている。同時に、児童は学習の権利がある」と発言していた。

交流していた私立校はスクールバスや自家用車で送迎していた。90年にはパソコンが導入され1年生から授業を受けていた。月曜の朝礼には国旗掲揚があった。宗教の時間があるが他宗教の児童は受けなくても良い。児童の意識調査をした時、「平和で民主主義の国である」ことを誇りに思っている児童が多かった。


スポーツ
 

サッカーが唯一最大の人気、プロチームもあり、90年イタリアでのサッカーワールドカップで1勝した代表チームが帰国した際、サバナ公園サッカー場で大統領出席の歓迎会を開催、その後の祝賀パレードでセントロの大通りは歓迎の人で埋め尽くされ一般車両が通れなくなった。


医療事情 

ストレスで胃の具合が悪くなったので、岡大医学部に短期留学したコン医師に診察してもらった。胃カメラ(日本のオリンパス製)を飲んだが赴任前岡山の榊原病院で飲んだ時より楽だった。しかも家内にカメラを覗かせ説明していた。医薬分業はすでに定着。正常分娩は1日で退院。公立病院の治療費は安いが大変待たされるそうだ。歯医者では2つの治療室が個室になっていて、口を開けさせるたびにグラシャス(有難う)と言い治療の説明をよくしてくれるが簡単に抜歯しようとするのにはまいった。


日本・岡山の認識 

毎年10月の国連ディでは市内の小学校が各国の紹介を受け持ち発表し、日本担当になった学校が日本人学校に見学に来た。「インドで起こった仏教がどうして日本の宗教になったか」と質問されたのには驚いた。相手の学校に行くと大使館から借りた観光ポスターや下駄、着物、児童が描いた富士山に芸者の色鉛筆の絵、ボール紙で作った自動車やテレビ等の模型工作が展示してあった。また、日曜日には各国の衣装を着た児童がセントロからメヒコサラサール劇場まで行進し、舞台で各国の衣装を紹介していたが着物の着付けが中国風だったので女の先生に指導に行ってもらった。

9月15日の独立記念日パレードに現地校と一緒に参加し、コスタリカ国旗と校旗を先頭に鼓笛隊、続いて低学年が日の丸の小旗を振りながら町内を行進し歓迎されたが、市民は日本についての関心は薄かったようだ。

日本人女性が一人で八百半の二階の日本文化センターで夕方生け花教室を週一回と日本語教室を週二回開いたり、毎金曜日の午後3時にテレビカナル・ドス(Ch2)で日本文化紹介したりしていた。家内も日本民謡に出演した。

11月の大使館主催の日本文化月間にはスペイン語字幕の日本映画鑑賞会や日本から来た舞踊家の踊り等の日本紹介を毎年実施していたが、参加する現地人は限られていた。日本について新聞やテレビに取り上げられることは少なく、あった時は大事件ぐらいであった。日本料理店は1軒で料理人はフィリッピン人、演歌が流れウエイトレスは着物を着ていた。在留邦人が少ないこともあり日本を知るコスタリカ人はほんの一部で、中国の一地方ぐらいの認識しかない。まして岡山市の存在なぞは望むべくも無い。

赴任した時、岡山市長の親書を姉妹都市のサンホセ市長に手渡したが、行政間の交流が中心で市民との交流は殆ど無かった。今後、市民との交流を望むのであれば、コスタリカ市民の関心深いサッカー等を通して交流し知名度を上げるとかマスコミを利用するとか工夫と継続が必要であろう。岡山の方は、今年からコスタリカ交流協会の事務局長にスペイン語が話せ意欲を持った行動力のある若い女性が就任しコスタリカの紹介等に尽力している。将来が楽しみだ。ホームページwww.costaricafan.net を開いている。


その他 

今から19年前だが、空港での出入国の記録はパソコンに入力。新聞「ラ・ナシオン」はカラー写真が多く、記事には担当者名を付けていた。FM 局の中に軽音楽のみを流していた放送局があった。

国立劇場の音楽会が終わった午後10時頃セントロのバス乗り場まで安全に歩け帰宅できたよき時代だった。


帰国後 

1998年11月、姉妹都市30周年を記念して桃太郎像除幕式、岡山公園起工式に出席する親善訪問団と一緒に再訪した時、大きく変わったものとしてエコツアーや観光施設の充実、日本料理店が増えていた事。車の増加による幹線道路の混雑や運転マナーの問題、難民や貧富の差の拡大による治安問題があった。

訪問団と別れ11日滞在延長した。丁度、日本文化月間で日本人学校を会場に餅つき、生け花展、協力隊員による茶道や沖縄民謡の披露をしていた。

コスタリカ人による盆栽展や青少年男女が柔道の試合(審判もコスタリカ人)を見て日本文化が少しずつ浸透していると感じたが、今回も現地の人が少なく日本人が多かった。安全面を考えると仕方が無いだろう。また、子供博物館国際ホールで倉敷市出身の岩崎洸ご夫妻によるチェロリサイタルがあり聴くことが出来た。

現在、コスタリカ国立交響楽団の芸術指揮者と第一バイオリン首席奏者は日本人である。

姉妹都市縁組40周年を記念して、平成20年コスタリカへの親善訪問団が計画されている。